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 1994-95年度ガバナー 田中 一郎 
 
| ロータリー歴 |  
- 1975年2月
 
- 坂戸RC入会
 
- 1982年
 
- 財団奨学学友委員
 
- 1983〜84年
 
- 財団奨学学友委員(2年)
 
- 1983〜84年
 
- 坂戸RC会長
 
- 1984〜86年
 
- 地区財団奨学学友委員長(2年)
 
- 1986〜87年
 
- 地区広報雑誌委員長
 
- 1987〜88年
 
- 地区財団部門委員長
 
- 1988〜89年
 
- 地区財団増進委員長
 
- 1989〜90年
 
- 第1分区代理
 
- 1990〜91年
 
- ロータリーの友委員
 
- 1990年7月
 
- べネファクター
 
- 1991〜92年
 
- 地区広報雑誌委員長
 坂戸さつきRC特別代表 
- 1992〜93年
 
- 地区クラブ奉仕部門委員
 
- 1992年10月
 
- RI超我の奉仕賞受賞
 
 
 ポールハリスフェロー6回 
 米山功労者2回 
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 1994〜95年度ガバナーの思い出 
 
 RI会長ビル・ハントレーの年度指針は『ビアフレンド』日本語に直せば『友達になろう』だった。そして軽快なテーマソングまでついていた。だから各クラブの公式訪問はこの歌に始まり、卓話は年度指針の解説に終始する楽しい4ヵ月だったことを思い出す。 
 地区大会は秋ではなく春に開催すると宣言し、その準備は10月から始めた。私の構想では記念講演は万葉の権威、私の高校時代の恩師である犬養孝先生にお願いし市内「浅羽野」で朗々たる犬養節の朗詠を期待していた。 
 その先生が関西大地震で消息不明となり、死者5,300、被災者32万という大惨事の時期にド派手な地区大会でもあるまいという意見や、大会を中止してそれに要する莫大な経費を関西のクラブ再建に寄付してはとの話もあり、大会開催の可否を日本支局や服部理事に問い合わせたがはっきりした答えはない。結局RIの見解として華美にならぬように自粛して開催されたいとの指示が支局から入った。 
 こうなると昨年来準備してきたプログラムの大部分はカットせざるを得ない。 
 記念講演もアトラクションも全部交渉のし直し、最終的には関西震災のチャリティー音楽会として自衛隊中央音楽隊の出馬をお願いし一般市民の来会も自由ということにした。 
 ところが大会直前になって私が猛烈な目まいに襲われ、医師からは、少し休養しなければ危険とまで言われたが、ガバナー不在の地区大会なんて聞いたこともない。なにがかにが地区大会の3日間だけは頑張らなければと薬と注射でやり遂げた。後に判明した病名は一過性虚血症、この後遺症には今もって悩まされている。 
 地区大会が終わるとすぐ次期会長の研修会(ペッツ)と入間市での地区協議会があり、ガバナーの仕事は大体終わるわけだったが、鶴ヶ島クラブでのトラブルがあってその善後策に苦心し、東松山むさしクラブの創設で右往左往、年度の最後まで忙しい思いをしたのが私のガバナー生活であった。 
「地区のあゆみ3」より 
 
  
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